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スペシャル企画「父と子の、ヱビス物語」 その2いかに自らの信念を伝えるか――
ヱビスを手に語る、林家たい平とさく平父子の物語。
もうすぐ「父の日」、2組の父子のちょっといい話を二回にわたりお届けする特別企画。2組目に登場いただくのは、日々の高座で、人気テレビ番組「笑点」で、観客をどっと湧かせる林家たい平師匠と、さく平さんの親子です。「師弟」であり「父子」である関係性、落語で描かれる親子の情愛、そして大ファンでもあるという「銀座ライオン」での思い出など、ヱビスビールを供としてお二人の間に流れる時間について語っていただきました。
落語は、人々に心のエネルギーを与えられる仕事。
林家たい平師匠と林家さく平さんは、落語家の師弟であり現実の親子でもあります。落語界は世襲制ではありません。しかし、さく平さんは父親の背中を見て、同じ落語の世界に飛び込みました。なぜ父と同じ落語家になろうと思ったのでしょうか。さく平さんはこう語ります。
「入門のきっかけは、師匠が年末にライフワークにしている“たい平の『芝浜』を聴く会”を見に行ったことです。大学生のころに裏方の手伝いをしていたのですが、僕も含めて、毎年、何百人もの人が『芝浜』を聴いて『来年も頑張ろう』という気持ちになる。心のエネルギーを与えられる落語という仕事はすごいな、と。それに、師匠がいる場はどこも賑やかで華やかになって、同席している人がみんな幸せそうなんです。そういった姿を見てきて、父の背中を追いかけたいと思い、入門を決意しました」
一方のたい平師匠は、「弟子にしてください」と言われた時は驚いたものの、素直に受け入れたと言います。
「まさか息子が落語家になりたいだなんて、夢にも思いませんでした。その気配すら見せていませんでしたから。でも、僕も親や師匠に反対されなかったから、いま落語家としての自分がいる。だから彼が自分で決めた道に『ダメ』とか『難しいよ』とは言いませんでしたね。ただ、本当に好きじゃなければやっていけない仕事なので、腹をくくっているかどうかだけは確認しました。それでもなりたいというのであれば、僕には反対する理由はありませんでした」
言葉では伝えられない、落語家としての姿勢。
では、師弟と親子のけじめはどのようにつけているのでしょうか。そこには、たい平師匠の凛とした考え方がありました。
「最初に決めたのは、家を出る時に『行ってきます』って言ったら弟子と師匠。帰ってきて『お疲れ様でした』と言ったら息子と父親に戻る。玄関がオン/オフのスイッチですね」
たい平師匠は自身の前座・二ツ目時代、師匠である林家こん平さんに厳しく仕込んでもらっていました。だからこそ「息子だから甘やかしている」とならないように厳しく接していたといいます。
「でもすぐに『これは違うな』と思いました。中学を卒業してすぐに落語家になる人が多かった昔は、修業の中で人間形成の指導が必要でした。でも今はほとんど成人してからの入門なので、人格はもうすでにできている。それよりも、仕事として人生を懸けていくために、何を自分の中に取り入れるかという勝負になります。僕は、さく平を一人前の落語家に育てるよりもお客さんのために生きているので、今まで通りお客さんに向き合う姿勢を見せるしかない。それをどう感じとるかが落語家に必要な資質だと思います。自分で考える力をもってほしいというのもありますが、それは言葉で教えても、わからない人はわからない。その考えにたどり着いてからは厳しくするのをやめて、元の親子関係のようにお互い楽になりました」
子どもの頃からたい平師匠は自慢の父だったという、さく平さん。入門してからの変化について次のように続けます。
「父親と芸人・林家たい平が自分にとって何か別の人みたいな存在だったので、ようやくひとつになった感じです。“父親”の面しか普段は見てこなかったので、“林家たい平”も見られるっていうのは、うちの家族で僕だけの良い機会だと思いますね」
100年以上前から変わらない、親子の心の距離感。
落語には、親子が登場する噺は数多くあります。『火事息子』『藪入り』や『子別れ』、滑稽噺でも、『初天神』『寿限無』『親子酒』『明烏』『干物箱』など。自身が親となって、たい平師匠の手がける噺に変化はあったのでしょうか。
「たとえば『明烏』は、父親が真面目すぎる若旦那に対し、遊び人を介して遊郭について教えるという噺ですが、真面目一辺倒の息子を心配する父親の姿には共感します。ちょっと前まで若旦那のほうに重きを置いて話していたものが、父親の目線になると違うものに感じる。どの登場人物に重きを置くかで、同じ落語でもだいぶ変わりますよね」
古典落語の多くは江戸から明治・大正時代につくられたものですが、令和の今も観客が滑稽噺に笑ったり、人情噺に涙したりしています。100年以上前の人々と同じ感情を共有している気持ちになりますが、なぜこうして廃れずに残っているのでしょうか。
たい平師匠が「どうしてだと思う?」と問いかけると、さく平さんが口を開きました。
「今は携帯電話があったりして、人と人の距離がどんどん近くなっている。近すぎてむしろ境目がわからなくなっている中で、心と心の距離は昔からずっと変わらないのかなと思います。たとえば父親と息子の関係であれば、息子を持った時に父の思いが分かるようになったりと、成長とともにいろんな距離感がありますが、それはどの時代でも共通ですよね。だから古典落語で描かれる人と人との距離感が、現代にも通じているんだと思います」
「僕の過去のインタビューを読んできたのかな」と茶化しつつ、たい平師匠は続けます。
「彼の言うように、いろんなものが便利になったけど、『あれ? 便利になった先に幸せがあるのかなと思ったら、そうでもないぞ』と。たしかに落語の国の住人たちは不便だし、貧乏だし、しょっちゅう長屋で喧嘩をしているけど、でもここに幸せの本質がある。“人間が本来もっている速度”が落語には脈々と残っているんじゃないでしょうか。最近、若い落語ファンが増えていますが、それは現代の速度にくたびれているからなのかなと思います」
ビールの缶を開ける音が、落語のピリオド。
「よそう。また夢になるといけねえ」のサゲで有名な『芝浜』をはじめ、落語にお酒はたびたび登場します。2023年からは寄席での飲酒も解禁となりました。たい平師匠にビールを飲む機会についてうかがうと、満面の笑みを浮かべて熱く語ります。
「仕事が終わって、真っ先にビールの缶を開ける『プシュ』っていう音が、僕の落語のピリオド。あの音は歓喜の音であったり、仕事のピリオドの音であったり、またみんなの乾杯の『お疲れ様!』という気持ちそのものの音なんですよね。ビールは注いだ時の鮮度が一番なので、美味しいうちにみんなで早く乾杯がしたいんです。その瞬発力だったり嬉しさが逃げる前に乾杯、というところがビールは特別ですね。先輩師匠方から芸談や人生の道しるべのような話も聞けますし、師匠の素にも出会える気がします。それは酒があるからこそのコミュニケーションですよね」
息子に体験させたかった、思い出の場所「銀座ライオン」。
取材終盤、「これはヨイショでもなんでもなく……」と、たい平師匠が切り出したのは「銀座ライオン」での思い出。
「息子がお酒を飲めるようになった時に、彼を銀座の7丁目の『ビヤホールライオン』に連れて行ったんです。昔からあるビアホールって、少し自分を大人にしてくれる場所なんですよね。だから、彼との最初のビールはビヤホールライオンで飲みたかったんです。思い出の場所なので、『ここはお父さんが前座の時に、先輩たちに連れてきてもらって飲んだところなんだよ』って語って聞かせたりしました」
さく平さんも、「連れて行っていただいた時、席が対面ではなく直角だったんです。それがまた境界線がないというか、親子であることを取っ払って飲んでいる2人という感じで、心の距離が近づいた気がしました」と嬉しそう。
たい平師匠、さく平さんのビールへの愛は相当なもの。これからも高座後のビールを最高に美味しく飲むために、最高の一席を私たちに届けてくれることでしょう。
父の日に、ヱビスビールで乾杯!
1964年12月6日、埼玉県秩父市生まれ。本名は田鹿明(たじか・あきら)。1988年、武蔵野美術大学造形学部卒業後、林家こん平に入門。2000年、抜擢で真打昇進。NHK新人演芸コンクール優秀賞等、受賞歴多数。2007年度(第58回)芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。現在は母校の武蔵野美術大学で教鞭も執る。一般社団法人落語協会理事。
林家さく平1997年1月5日、東京都中野区生まれ。本名は田鹿咲太朗(たじか・さくたろう)。2019年、立教大学法学部卒業後、林家たい平に入門。ただ今、落語協会で前座修業中。
文・佐藤友美 写真・山本雷太